縁のうたについて



 縁-YUÁN-が主題歌として起用されている白蛇:縁起の公開まであとすこしという時期になりました ずっとたのしみにしていたので純粋にうれしいですね🐍🤍


(公開前にまとめておくつもりだったのですが気づけば1ヶ月近く経ってしまっていました……)


 人がすなる短歌の解説なるものを私もしてみんとす、ということで 解説というか、なんとなくつくるときに考えていたことを、どうにか文字に起こそうとしてみようと思います

 あくまでも映画を観る前、縁MVのYouTube.verを見た時点でのうたです 解釈に絶対の正解は無いですし、創作したものは私の手を離れた時点で私だけのものではなくなります この人はこう感じてたんだなぁ、くらいのかる〜い気持ちで読んでくだされば幸いです️️️⛅️

 ということでさくさく振り返っていきましょう〜




・愛だったもので造った両眼はあなたを忘れずとらえてしまう
 
 なんか今見てみても結構そのままだな〜と思います。いつも脊髄で短歌こねてるのがバレますね……
 輪廻転生と中国語で題名にした通り、ユエンの短歌はどれも輪廻のイメージが色濃く出てると思います 記憶があろうが無かろうが、生まれ変われば身体は別物になる。それなのに結局恋しい人を見つけてしまう。そんな画が浮かんだ結果のうたです。物質的な変化を印象づけたくて「作る」ではなく「造る」、「両目」ではなく「両眼」としました。「とらえる」は「捉える」と「捕らえる」の二つの意味で考えていたので平仮名のままにしています。


・巡れども廻れども回れどもめぐ、(その手にふれる腕が足りない)

 最初は「巡れども廻れども回れども尚その手にふれる腕がたりない」でした。めぐる、という漢字が3つあったので3回繰り返したんですが、途中で3回じゃ少ないな……と思い、中途半端にして読点で止めました。何度も生まれ変わって誰かを探し続けていたら、きっと数の概念なんて無くなるだろうな、なんて思います。何回手を伸ばしたのか。何回その手の長さが足りなかったのか。そもそも伸ばす機会なんてなかったのか。明確なことは分からないので括弧書きにしています。


・出逢わずに絶えてしまった玉の緒を結び直していまはねむろう

 「玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする」教科書等にも掲載されているような、有名な式子内親王の短歌です。あのMVでの、糸どころか縄となっていた赤い繋がりを見て、ぼんやりとうたをこねようとした時、最初に浮かんだのがこちらの短歌でした。
 "魂を身体につなぎ止めておく緒"≒"赤い糸"として、「玉の緒」ということばをお借りしています。細い糸でも繰り返し結わえば太くなり、結び目も固くなります。もう千切れないように、もう途切れないように、願いながら今日も今世も眠る。そんなイメージでした。




・面影を握り締めると伸びていた爪が食い込む 夢じゃなかった

 最初は「夢じゃなかった」ではなく「今生らしい」でした。転生した後に目覚めた(=前世の記憶を思い出した)時の朝のイメージです。夢であって欲しかった、という気持ちを滲ませたつもりです。


・もういっそ忘れられたらどんなになんて弱音を殺したのはいつ

 多分一番直したものです。弱音がどこか自分とは離れたところで消えてしまった人の絵を想像していたのですが、途中で自然と死ぬのではなく殺したのかもしれないな、なんて思い、結果こうなりました。忘れられたらどんなに楽か。そんなことを思わなくなった日すら、もう自分では分からなくなってしまうのかなと考えていました。


・幾重にも編んで束ねたこの愛が解けなくなったふりをしている

 絡まった糸を解くのは力が要ります。鋏で切れば楽なんでしょうが、ここまで来て解いてしまうのも口惜しい。解けなくなったのではなく、解けないままでいるのかなぁ、なんて想像からできたうたです。


・心臓がとくりとくりと波打って海へあなたへつぎのわたしへ

 輪廻と聞くと、どうしても海を想像してしまいます。歌詞の「かえろう」が「還ろう」だったことが印象強く残っていました。あなたのもとへ帰る。あなたのもとに還る。水が循環するのと同じように、命や魂が何処か大いなる流れに戻っていく様子を思いました。「波打って」は「脈打って」と似てるな〜くらいの軽い気持ちで入れた気がします。
 ツイート文の中国語である「ただいま」は、このうたから取りました。愛しい人に、ただいまを言いに行くひとの姿を想像しました。



 解説にしては短いような気がしますし、ポエムにしては纏まりがない気がします 抽象的なことしか言えてませんが、少しでもなんとなく伝わればうれしいです🌿 

 長々とありがとうございました❕明日やっと映画見に行けるのでメチャクチャたのしみにしつつ全力で泣いてきます❕(?)